ツリー・オブ・ライフ

★★★☆☆3.5
デビッド・ピットとショーン・ペンが出演してるので、よくある感動ヒューマンドラマかと思って見に行くと、どえらい目に合うだろう。
この映画の敷居はかなり高く作られている。
この映画を見る前に、私はもっと難攻不落の映画を鑑賞していた。
前回のレビューである、ゴダール・ソシアリスムである。
それを見ていて良かったと思った。
単に難しいという共通点が同じなだけでなく、意外と作り方も似ていた。
それで言うと、ツリーオブライフの方が圧倒的に解読しやすい映画だった。
メッセージ性が強いので、凝り固まった感性で鑑賞すると、宗教映画を見ている気分になる人もおおいだろうが、そう片付けるには勿体無い映画である。

内容は実は至ってシンプルであり、「生と死」だろう。
もちろんあらゆる解釈ができるような作り方でもあるので、他にもメッセージはあるだろうが、
一番大きい根幹部分はそれだろう。
冒頭、ある家族が映し出され、3兄弟の2番目が事故死するという悲劇が起こる。
そして、大人になった長男が仕事をしながら、過去を回想するというところから、この映画は始まる。
そこから、体感時間は相当長い「生」の描写が始まる。
マグマが噴き出すなどの、人間をはるかに超越した大自然の描写だ。
大自然の描写をこれでもかと見せられ、人間の誕生に繋がったとしても、なかなか実感しにくい。
私は思ったが、実感する必要などないのだ。
自分の思考を超越する大自然という存在は、「そのまま受け取ればいい」のだと。
正直、私としては「なんやかんやあって人類は誕生した」程度の受け取りで良いと思っている。
しかし、その「なんやかんや」がこれでもかという奇跡の連続で、人間は誕生したのだと。
人間が生まれるはるか前に恐竜にも思いやりはあったのだという事。
そして、母親は痛みを伴い出産を行うのだと。
そう、「生」はとても素晴らしい事なのだと。
それさえ掴めればこのシークエンスはもう終わり。
あとは、デビッド・ピット家族を見守ればいい。

デビッド・ピット家族にはいろいろなことが起こるが、それぞれのシーンに複雑なメッセージはない。
むしろ、それらいくつものエピソードの固まりが、「家族」であり、「歴史」になる。
誕生し、成長し、自我が生まれ、発見し、反抗し、そして成長する。
それらは淡々と起こる。
そして、基本的に後のショーン・ペンである長男を媒介として語られる。
長男が勝手に家に忍び込み、女性のショーツを見て興奮するシーンも、言わば「男の子あるある」な訳で、長男の狂気でもなんでもない。
「そういうことあるよね?」というシーンだ。
次男、母親、父親との微妙な距離感を楽しめばいいのだ。
そして起こる悲劇。
次男の死。
それをショーン・ペンはどう受け止めたのか。
最後の天国にも似た場所での人々の表情。
彼らがその答えを語ってくれる。
「死」。
「死」は、「生」と同じぐらいに素晴らしいことだと表現したいのだと思う。
「死」が何であるかを直接伝えてはいない。
しかし、「死」があるから「生」の素晴らしさを痛感でき、
また逆に「生」がるから「死」が素晴らしいと悟るのだ。
この映画を高尚に受け止める必要は全く無い。
単純に、一家族を通して、「生」と「成長」と「死」を追体験すればいい。
そこから何を答えとするか。
それは幾分か観客に委ねられているが、「この世の素晴らしさ」を伝えている以外に答えは無い。
足りない要素は確かに多い。
一家族を表現するのはシークエンスが少なく、神た大自然の描写が多く、家族との描写との絡み合いが薄いというのは感じた。
少年期のみの描写しかないのは、人生を描く上で情報量が少ない。
青年期に弟を亡くした喪失感をどう受け止めたのかを見たかった。
ただし、直接的でなく抽象的な描写のおかげで、その必要性は感じない作りにはなっている。
そして鑑賞後の感想がゴダール・ソシアリスムと似た感覚だった。
映画は「自由」だ。
しかし、この映画を真似ようとするととんでもない駄作が生まれる。
この映画は、きっととてもシンプルなところからスタートしていると思うのだ。
それをどう、いかに、直接的でなく、直接的に訴えかけるか。
その結果、生まれた作品だと思う。
テレンス・マリックにせよ、ゴダールのせよ、彼らの共通点は。
シャイでロマンティストな男であることだ。

ゴダール・ソシアリスム

★★★★☆4.0
映画において、ある種ひとつの究極。
ゴダールが示した映像芸術は目を覆いたくなるほど難解だった。
フランス的というか、ゴダール的というか、とにかく映画を、ハリウッドとは全く異なった視点から捉えており、まさに芸術と呼ぶに相応しい映画であり、人によっては評価が最低にも最高にも分かれる作品であろう。
正直な話、私は映画中おそらく10分ほど眠ってしまった。
上映が開始して30分ほどしてからだろうか。
もう耐えきれなかった。
と同時に、寝ても構わないと確信して眠りに就いた。あまり寝過ぎずに起床できたのは運が良かったが、寝ても問題なかったと起床してすぐに確認できた。
そう、やっぱり意味不明だったのである。
映画のチラシでは、なかなか面白そうな文言が並び、割とポップなオムニバス映画か何かかと思っていた。しかし、その想像は上映開始だった1分で裏切られる。
とにかく、意味不明。客船が舞台である事はわかるが、明確なストーリーラインが見えない。
客船の至るところを綺麗な映像や荒い映像で映し出し、それら一つ一つはほとんど関連性がない。
通常、映画で追うはずのストーリーがまったく追えない。そして、登場人物たちが話す言葉は、難解な言葉ばかり。
おそらく名言や詩を引用しており、およそ普通の人間が話す言葉には思えない。
なんとか意味を紡ぎ出そうと全神経を使い、意味を認識しようとするが、全くわからない。
理解不能。
そこで、私の充電が一度エンプティになった。
個人的な小休憩を挟み、映画を再度観始めた時、私はひとつルールを決めた。
意味を追わない。
目の前に飛び込む映像をそのまま受け取る。
すると、不思議なことにスルスルと私の感覚に映像が入ってくる。
もちろん、ストーリーはほとんどあってないようなもので、依然として登場人物は難解な言葉を語り合う。
その中に、自分が共感できる映像が散りばめられており、それらを感覚的に見つけることが楽しくなってきた。
そして、意味を探し続けていた時とは一転して、なんとも言えない浮遊感を感じることができた。
そこでハッキリとわかった。
意味を探すこととは、閉ざすことだと。
自分の心を閉ざし、自分の中に答えを求める事だと。
そして意味を求めず、目の前の情報をそのまま感覚で捉えた時、やがてそれは新たな意味に変化した。
つまり、私の中で何かが覚醒した。
この映画はドラッグである。
いろんな刺激物を含有しており、どの刺激物で覚醒するかは人によって違うだろう。
それを受け入れないか、受け入れるか。
本当に人を選ぶ映画である。
そして、この映画の恐ろしく天才的な点とは、美しい映像だけでなく、ジクソーパズルのように分解されたピースを、組み立てずにピースのまま観客に放り投げ、それが成立していることである。
普通は成立しないものを成立させ、さらに映画というものを真っ向から受け止め、真っ向から否定している作品なのだ。
狂っている。
でも心地良い。

多くの映像作家は、この映画に刺激を受け、模倣したくなるだろう。
そういうエッセンスで溢れる映画である。
しかし、その多くの映像作家は模倣に失敗し、本当に無意味な作品を作るだろう。
なぜならば。この作品に登場するいくつもの映像は、それ単体では非常に意味のある映像だからである。
歴史と文学、哲学を愛し、伝えたい明確なメッセージは、この映画にはある。
「それは結局なんですか?」の問いには、ゴダールは「ノーコメント」と答えた。
今昔物語のヨーロッパが遺した膨大な過去の映像の中から、紡ぎ出す無限とも言えるザッピッグ作業。
そして選りすぐりの映像を見ることができるだけでもこの映画には価値がある。
死期を前にして、ゴダールは自分に残されたしごとがなんであるかを認識している。
ゴダールは言っている。
映画は自由だ、と。
何をしたって良いと。
しかし、その自由は高くつく。
膨大な歴史と知識の前に、何ができるか。
さあ、まだまだ映画でやれることがある。

ブルー・バレンタイン

★★★★☆4.5
大事なことなので、一番最初に言っておく。
「この映画はカップルで観てはいけない」。
「この映画の感想をパートナーに話してはいけない」。
洗練されたストーリーと、徹底的にリアルな人物造形。
そして、揺らぎのある映像は、この作品に的確にマッチしている。
もうセンスの塊としか言いようがない。
何を作りたくて、何を表現したくて、何をどうすれば良いかを考え尽くしており、この作品を年イチに挙げる。
年イチどころか、ここ十年で一番偉大な作品かもしれない。
それほどにこの作品は高性能で、コストパフォーマンスも高い。
だがその反面、役者に凄まじい負荷が掛かっているのは言わずもがなだろう。
ストーリーラインは二軸あり、現在と過去が交互に入れ替わりながら進んで行く。
その手法自体は、今となっては特に珍しいわけでない。
だからこそ、なぜ現在と過去を交互に見せつける必要があるのかが非常に大事になってくる。
不穏な音を立てながら崩壊しかかっている家庭と、これから明るい未来を描こうとする二人。
この対照的な現在と過去を、スムーズに見せていく。
現在と過去の映像をフィックスと手持ちで撮り分けたのは素晴らしい。
過去のシークエンスでは、独特の揺らぎが表現され、ファッショナブルであり、ホームムービー的な温かみもある。
若い男女が出会い、恋に落ちるのは見ていて爽快だ。
見ている人間は過去のシーンを早く観たい衝動にかられる。
うまくいかない現在の二人より、過去のシーンの方が楽しい。
現在は緩やかに下りながらも停滞しているとすると、過去はジェットコースターのように展開しているからである。
この辺りのスピード感覚が巧みで、過去と現在の終点がほぼ同時にやってくるように仕上げている辺り、監督は本当にわかっている。

そして、何よりも。
何よりもこの作品はストーリーがいくら巧みであろうが、役者を欠いて語る事ができない。
むしろ、この作品はストーリーそのものより、キャラクターの描写がバケモノ。
二人とも素晴らしいが、シンディというキャラクターは、映画史から見てもその名を刻むほどのキャラクターだと断言する。
そして、そのシンディを演じられるのはミシェル・ウィリアムズしかいない。
それほどに、シンディというキャラは凄い。
可愛いしセクシーなのだが、ちょっとブス。
細くてスレンダーではなく、ちょっとポッチャリ。
ハッキリ言って、「超ヤレそう」。
事実、シンディは初体験が13歳で、体験人数は25人だという。
多分、こういう女の子、本当にいたんだと思う。
なのに、勉強家。
そして、えげつないほどロマンティスト。
だから、彼氏とうまく行ってない時期のディーンの登場なんか、白馬の王子様が奪い去りに来たぐらいの登場で、ハートを一気に持っていかれる。
中出ししちゃった元カレは、ディーンと付き合ったら、ポイ。
最後には、元カレの留守電を聞いて笑う始末。
顔面ボコボコで現れたディーンにも、そんなに優しくない。
こういう女・・・確かに、いる。
そう、オンナノコをここまでリアルに造形した事が、この映画の一番に偉大な点なのだ。
ディーンとシンディの別れ話の時も、シンディは至ってオンナノコだ。
ディーンは「どうすれば良い?」と尋ね、シンディの顔色を伺う。
ラブホテルでも、「どんな風になって欲しかった?」と尋ねるし、ディーンが優しい男のように見える。
しかし、シンディにとっては、そういう男じゃ駄目なのだ。
能動的に動き、走り回り、尚且つ、自分をオンナノコでいさせてくれる人。
シンディが願う男像とは、実は恐ろしく理想が高い。
しかし、シンディは「それぐらい良いじゃない」と、やはり夫にそれを望む。
もちろん、ディーンが少しでもシンディの理想を実現していれば、まだしもディーンは明らかにダメ夫。
経済的な話は出て来ていないが、どう考えてもディーンの方が稼ぎが少ないだろう。
見た目も頭は禿げ上がり、あのウクレレを弾きながら口説いてくれたアントキノディーンはどこ?という感じだろう。
娘を可愛がっているし、その娘は実の娘ではないことを知って可愛がっている事は確かに殊勝なことだが、さすがにそれだけで全てを受け入れるのは無理だ。
シンディのハートは、どんどんと腐って行ったのだろう。
第三者から見れば、「二人とも悪い」し、「仕方がない」。
ある夫婦の幕切れ、それだけの話なのだが、これを他人の話だと見ていられるのは10代から20代前半までだろう。
一般的な恋を経験した男女なら、痛烈に受け取れるはず。
キャラクター自体に共感を持てれば、尚更だ。
「愛する」よりも、「愛されたい」。
「愛する」ことは、「傷付ける」ことだから。
もっとわかって欲しいから。
もっと知って欲しいから。
もっと認めて欲しいから。
だから、人は、愛する人を傷つける。
見えないナイフを振りかざす。
ここに自分がいることを刻み込むために。

冷たい熱帯魚

★★★☆☆3.0
本作は猛毒エンターテインメントと謳っているが、それは確かにその通りだった。
残虐なストーリー・世界感ながらも痛快さはしっかりと表現されており、猛毒エンターテインメントの名に相応しい作品である。
しかし、痛快さを重んじる余り、失ったものも大きい。
それは人物の思考が、余りにも見えづらくなっている。
登場人物は割と少なめで、特に重要なキャラクターは五人と断定して良い。
社本、社本の妻、社本の娘、村田、村田の妻の五人だ。
殺される人間の思考はこの際どうでも良く、村田にとって都合の悪い人間であれば良い。
この作品でボディーを透明にされる人間は、三人いるが、殺される理由は「村田を怒らせる」だけで良い。
そして、村田はただ怒れば良い。
だが、余りにも殺す理由と殺される理由が弱く、「何で?」と思う事が多い。
最初の被害者も、村田のビジネスに同意しているのに殺害するし、渡辺哲も殺される理由としては弱い。
おそらく、もう既に殺し自体が目的になっているのだと推測できるが、やはり村田の胸の内が良くわからない。
村田の台詞で、元々の村田が内向的な性格の少年だった事が語られるが、その点も説明不足でどのタイミングで殺意を実行に移したのかが見えない。
そして、犯行を共にする村田の妻の思考も良くわからない。
村田に抱かれる社本の妻も、ただただ父を拒絶し続ける娘も何を考えているのかわからない。
もう、ここまで来ると、全ての人間の思考が全くわからない作りになっている。
キテレツなタイミングで、キテレツな事が起こるので、見ている側はハラハラはするが、中身がない。
唯一、全編ほぼ映りっぱなしの社本の思考だけは追えるようになっているが、村田の死亡後に村田化する理由がこれまたわからない。
内向的な人間は、一度キレると狂人になる、と言いたいようにしか見えない。
村田も社本も、幼い頃に虐待に遭っていたとか、せめてそういう過去を入れないと、皆殺しにした後自殺するのは、ただ映画的な演出としか受け取れず、リアリティが無さ過ぎる。
その後の娘の台詞も全然わからない。

エロとグロのダブルパンチは、若い男の脳みそと股間を刺激するが、正直子供騙し感は否めない。
「愛のむきだし」で監督が見せつけたのは、富士急ハイランドを4時間の中にブチ込みましたスタイル。
ジェットコースターあり、ジェットコースターあり、ジェットコースターあり、ジェットコースターあり!
という、とにかく突飛なエピソードメガ盛りで4時間突っ走った作品である。
今回は、エロ!グロ!エロ!グロ!エロ!グロ!の繰り返しで、最後は若干食傷気味。
最初の怪しげな雰囲気は良かったものの、中盤以降、説明なしにキャラクターが暴走した感じがしてならない。
余りにも個性的なキャラクターが生まれたため、作り手が遊んでしまったのは残念である。
もう少し丁寧に人物造形していれば、凄まじい作品になっていたのたが、惜しいところである。

シティ・オブ・ゴッド

★★★★☆4.0
荒々しい映画だが、その実体はもの凄く丁寧に作られた群像劇で、ゲットー×ギャングモノの金字塔と呼ぶべき名作。
ファッション映画に属する映画で、トレインスポッティングやパルプフィクションらと並ぶ、若者に愛される映画のひとつだろう。
事実、私も熱狂したひとりで、「こんな映画を撮る!」と息巻いたものだ。
確実にこの作品から多大な影響を受けているであろうスラムドッグ・ミリオネアは、この作品のいい部分を存分にパクリ、いい味付けにしている。
美術面はブラジルとインドで場所は違うものの、熱気や殺伐さなどは酷似しており、もう正直、同じ場所だと言われても疑わないだろう。
スラムドッグ・ミリオネアは、昨今のインドの高度経済成長を描写するシーンがあるため、最後の映像はずいぶん近代的だが、ゲットーのシーンはもう同じ。
ブラジルかインドかの違いで、ブラジルで起こる事件はインドでも起こりそうだ。
そして、カメラワーク。
シティ・オブ・ゴッドのカメラワークは秀逸で、カラコレの出来もいい。
この辺りの技術面もしっかりと踏襲しており、逆にいかにシティ・オブ・ゴッドが優れた映画なのかをスラムドッグ・ミリオネアから学ぶこともできる。
砂と空のコントラストが非常に美しく、映像的には写真の連続を観ているような感じだ。
また、原作のストーリーラインをできる限り崩さず、130分にまとめたのは偉業といわざるを得ない。
原作を素晴らしい映画にするのが、映画監督の仕事だが、シティ・オブ・ゴッドはしっかりと成功しているいい例だ。

長編の原作の映画化は難しく、どこまで映像化するのかは非常に困難だ。
このシティ・オブ・ゴッドの場合は、年代の説明をあまり詳しく説明せず、だいたい同じ時間にいろんなことが起こっているように描く。
原作は10年間を描いているようだが、そこはほぼ無視。
余計な説明を省き、没入感を優先させている。
スラムドッグ・ミリオネアと酷似している点はまだ続き、時間軸の操作もそれが言えるだろう。
一番ラストのシーンを冒頭に持ってきて、シークエンスを小分けに描き、人物の紹介と魅力を描く。
基本的に主人公は狂言回しに徹し、黒子をつとめる。
黒子を努めながら、ナレーションでシークエンスを説明する。
このナレーションが心地良くなければ、映画が台無しになるが、もちろんそんなことはない。
「なぜお前がそんなことまで知ってるんだ?」ということまで丁寧に語ってくれるおかげで、映画中に迷うことはない。
しかし、グッドフェローズ然り、軽快なギャング映画のナレーションの多さは偶然ではないはず。
ナレーションが入る、すなわちカット数が多く説明しなければならない情報が多い、よって長編の作品を描くことができる。
逆算すると、長編を2時間近くに収める為には、スピーディーな展開が求められる。
スピーディーな展開はカット数が多くなり、短い時間に情報量が溢れかえる。
それをナレーションで手助けし、スピーディーな展開に緩急を持たせ、情報を整理する。
日本はこの手法が巧くなく、ナレーションを効果的に使った映画を観たことがない。
何よりこのギャングナレーション手法には、優れたサントラが必要で、このシティ・オブ・ゴッドのサントラも素晴らしい出来になっている。
日本映画は音楽から変えていく必要があるだろう。
北野映画が評価される理由に、優れた音楽家が音楽を担当しているというのは見逃せない要素だろう。
演技面では、やはり繊細さが足りない印象はある。
役者のほとんどを現地で揃えたというのだから、逆に現地の素人のポテンシャルは凄まじいと、そっちを評価すべきだろうが、見応えのある演技を観ることは出来ない。
むしろ、演技のアラを誤魔化すために、ギャングナレーション手法を使ったのかもしれない。
登場するスラムのクソガキたちに区別がなく、一部の人間にしか特徴がないように作られており、冒頭に出てくる主人公の兄貴に女房を寝取られる男は、顔も役割も「いい感じ」なのだが、中盤以降はリトル・ゼのオンパレードで、伏兵の面白さがなくなってしまう。
リトル・ゼのいくつかのシークエンスを省いてでも、伏兵にスポットを当てるべきだった。
伏兵どころか、仇敵の描写があまりに少なく、抗争自体があまり面白くない。
もの凄くくだらない理由から抗争に発展するのは一向に構わないが、せめてキャラクターは魅力的に描いてほしい。

あと、主人公に忍び寄る危機、というのが薄く、なんかいつも守られてる感じがして、ハラハラしない。
ナレーションしてるのも主人公なので、タネを明かすと死ぬ訳も無いのだが、クライマックス近くの写真を撮るくだりで、主人公が「リトル・ゼに殺される!」とブルってるシークエンスがあるが、本当に「こいつ、殺されるかも」と観ている側に思わせた方が面白い。
写真を撮る理由を知っていれば、主人公は絶対に殺されないので、あの辺のシークエンスは勿体無い。
理想的な流れは、リトル・ゼに急に呼び出されて、アジトに向かったら、インテリメガネのカメラを貰う。
さらに、それで写真を撮れ!と脅され、仕方なく撮る。
カメラはやるから現像して届けろ、と言われ新聞社で現像したら、写真が新聞に載ってしまう。
ヤベエヤベエ!と思ってたら、最後の最後に出くわす。
マジで殺されるかも、と思ってたら、リトル・ゼに「あの写真、イカしてたぜ!また撮ってくれ!」と言われ、脳内に「?」が飛ぶ、みたいな流れなら、結構ソワソワしながら観ていられる。
残念な展開なのは、死ぬかもしれないと怯えてる状況なのに、女編集者とニャンニャンするってのは緊張が足りない。
ソファで普通に笑いあってるのは、いかがなものか。
主人公自体が、作り手からあまり愛されていないように思う。というか、主人公の心の内が全く分からない。
最終的な「社会的な」成功者になるので、主人公が物語中は不遇なのは、仕方なしだが、主人公が街一番の女と良い感じになるも、インテリメガネにあっさり奪われることについては、割とスルー。
「お前、何も思わないの?」と多少困惑する。インテリメガネがいい奴で、尚且つ切れ者なので、「あいつなら仕方ないか」と思ったんだろうと察することはできるが、インテリメガネの送別会でDJブースに入り込んでヘッドフォン付けて踊る主人公を観て、違和感を覚えた。
「あれ?お前、そういうとこにいられる立場だっけ?」と。
さらに、フロアでインテリメガネと街イチガールが踊っているのに対し、普通に笑顔で返し、カメラを貰った瞬間、満面の笑み。
「お前にプライドはないのか?」と。
リトル・ゼは主人公の兄貴を殺した張本人だし、何しろ主人公の兄貴は元々街の三人組のチンピラだった人物で、リトル・ゼが主人公を忘れない訳もなのだが、度々リトル・ゼに忘れられたような描写が入る。
「それ、いる?」と毎回感じた。
主人公の小物感を出す為とリトル・ゼ大物感を出す為の演出なのだろうが、そのくせインテリメガネのカメラの件を覚えていたり、繋がらない点がちょいちょいある。
その辺の雑さは気になるところだが、前述のギャングナレーション手法のおかげで、確かに誤魔化ている。
丁寧な描写がある分、その逆、荒さも目立つ。
しかしながら、かなり高度な映画テクニックを用いており、時間軸操作も心地良く、シークエンスの記憶が飛ばない時間内で伏線回収するのは巧みで、興味も持続する。
最後の抗争まで流れ込むように進むので、鑑賞の体感時間は上映時間の半分ほどだ。
ファンクやソウルなど心地良い音楽に乗って、殺伐としてながらもカラッとした明るさと軽快なリズムで行われる殺戮は、日本では考えられないほど陽気でファンキーだ。
ある種アニメ的な世界だが、スラムの超底辺で暮らすチンピラのリアルな生態系を描き、酒!音楽!女!銃!ドラッグ!と若い男が大好きなものが出てくる。
この映画が始まって、すぐにチンピラが銃片手に登場するが、それを受け入れられた時点で、この映画はあなたが大好きな映画だ。
逆に、その銃を見て、「何で銃持ってんの?」と突き放されたら、観るのはよした方が良い。
そういう映画だ。

モンスター

★★★☆☆3.5
モンスターという称号は、一見するリー(シャーリーズ・セロン)に与えられたものだと誰しもが思うが、
実は違う。
モンスターという称号は、セルビー(クリスティーナ・リッチ)に与えられた称号だと思う。
まずは、シャーリーズ・セロンの狂気的な演技とその姿は、見る者を魅了するだろう。
「あの美しいシャーリーズ・セロンがどうやったらここまで醜くなるんだ?」と、映画を見ている最中、ずっと気になってしまう。
それほどにメイクも良く出来ているし、何と言っても、あのいい感じに怠けた体を作ったのは驚異的だ。それと全く同じレベルで、クリスティーナ・リッチの役作りも凄まじい。
バッファロー’66のあのぽっちゃりエロスはどこへやら、ボーイッシュでかつコケティッシュな少女を見事に体現している。
ただ太ったり、痩せたりするだけで表現できるものではないので、この二名はこの作品にかなりの熱量で挑んだに違いない。
リーがモンスターと化す一連の流れをしっかりと見ていると、リーがモンスター化しているのではなく、実はセルビーがモンスター化しているのだとわかる。
いや、むしろはじめからモンスターだったのかも知れない。
要は、リーはセルビーとどこまでも行く覚悟を決めているが、セルビーは違う。
中盤の遊園地のシーンで、セルビーが心底リーに陶酔していない事がしっかり描写されている。
男の子を見つけては駆け寄り、一緒にコーヒーカップに乗って楽しそうな表情を浮かべる。
観覧車に乗ろうと誘うと、「彼女がいるから無理」と断られ、仕方なしにリーと観覧車に乗る。
他にも、セルビーがふらっと街へ出かけて、リーの話をさも自分の話のように語るシーンがあるが、
単純にセルビーは「孤独」だっただけで、相手は誰でも良かったに過ぎない。
かまって欲しくて夜ごとバーに繰り出すが、皆それぞれ相手がおり、かまってもらえない。
そして、見つけたリーに話しかけ、この物語が始まる訳だ。
セルビーからすれば、「リーでなくてはならない」訳ではなく、「誰でも良いからかまって欲しかった」だけ。
殺されそうになったから殺したと、最初の事件をリーが語る時には同情したが、次の殺害が発覚した時には、セルビーは軽蔑の目でリーを見た。
そしてもっと言えば、リーが金を持っている訳がないのを知っていて、
「メシを食わせろ」
「仕事をしろ」
「私なんかどうでも良いんだ」
と、リーを責める。
人を殺した段階でモンスターになったのはリーだが、セルビーがリーにモンスターになれと首を絞めていた訳だ。
自分の人生を終わらせても良いと思っていたリーにすれば、セルビーは最後の希望の光で、縋らざるを得ない。
もちろん、リーもセルビーの前でカッコつけたいので、暴言を吐いたり、気前の良い事をしたりする。
まさに、リーは「男」なのだ。惚れてしまった女の手前、無様な事はできないと奔走する。
それに腰巾着のようにくっついているように見えて、コントロールしているのが、セルビーだ。
コントロールというより暴走させているのだが、こういう二人の関係は普通に男女に多いと思う。
セルビーが大人になれば、どういう女性になるのか容易に想像できる。
つまり、「自分の事しか考えていない女」だ。
無謀な旅である事は百も承知なのに、旅が始まって早々に経済的な話をするところを見ると、
「私が行きたいと言い出したんじゃない、あなたが言ったんだ」
と思っている。
リーからすれば「それはないだろう?」と思う。
他人のために無茶苦茶な事をするか、自分のために人に無茶苦茶な事をさせるか。
そう、誰かが無茶苦茶な事をしなくてはならない。
それでも、好きだから。愛しているから。
裁判のシーン、セルビーに指を指された直後、リーは「そう、それでいいんだ」と笑みをこぼす。
その後、悔しさと悲しみとやるせなさが押し寄せて咽び泣く。
セルビーはその時、リーの顔を未表情で見下ろした。
結果的なモンスターは誰が見てもリーだが、セルビーもモンスターなのだ。
この世はモンスターで溢れ返っている。
「孤独」が、「貧困」が、人をモンスターにたらしめる。
しかし、何よりも恐ろしいのは、「無意識の偽善者」。
これこそが女であり、女の原罪であり、それをモンスターと呼ぶのだ。

トゥルー・グリット

★★☆☆☆2.0
ファーゴとノーカントリーを作ったコーエン兄弟が作ったとは思えない作品。
勇気ある追跡という作品のリメイクとの事だが、わざわざこの作品をあえて選んだ理由が全くわからない。
正直、この映画は非常に退屈な仕上がりになっている。
脚本そのものは今の時代からすれば、なんの変哲もない話だろう。
少女が父親を殺した男を追うのに、タイプの違う二人の男と旅をする。
旅の道中、いろんなトラブルに巻き込まれ、ようやく犯人と出会って、どう対峙するのか。
ある種安心して見れるストーリーとも言える。
しかし、この映画では、トラブルからキャラクターから、何から何まで退屈。
まず、芝居が巧いようで、実はそうでもないヒロインの少女。
少女のくせに減らず口で、冒頭から商店のオッサンを唸らせるシークエンスがあるが、これが見事に減らず口で終わっている。
というか、この少女は口を開けば「弁護士」と「訴える」しか言わない。
この発言が勇敢だとは到底思えず、正直好感が持てない。
もし、この少女を勇敢であると描写するならば、性格が悪そうに見えるこの少女をキャスティングすべきではない。
せめて、この少女でも怖がることがあるのだと、キャンプ中に泣き言の一つでも言わせるかと思いきや、そうでもない。
でも、この少女をキャスティングしたのは、多分狙いで、ラストに気が強そうな独身の偏屈ババアとなって搭乗するが、しっかり減らず口である。
つまり、このキャラクターは最初から愛せない作りになってしまっているのだ。
愛せないで言うと、正直ジジイの保安官も愛せないし、レンジャーも愛せない。
何が愛せないか。
とにかくこういうアウトローなキャラクターは、「面白いことを言わなきゃいけない」のに、全然面白いことを言ってくれない。
遅刻上等で、社会不適合者のはずのリリー・フランキーが愛される理由は、「面白いことを言うから」に他ならない。
現代社会においてのアウトローであろうが、西部劇のアウトローであろうが、アウトローたる者は、面白くなければならない。
なのに、そうじゃない。
全く笑かしてはもらえなかった。
特に序盤の保安官の裁判のシーンは、隣からいびきが聞こえてくるぐらいつまらなかった。
あのシーンは全部カットしても全く問題ない。
だから、この西部劇には、見事に痛快さが足りない。
ウィットに富んだギャグならお手のものなはずのコーエン兄弟は悉く不発弾を放つ。
こういう旅映画は、旅の面白さが全てと言って良い。
最後のクライマックスは、旅が面白ければ面白いほど、面白くなるからだ。

少女の復讐劇である以上、少女の身の安全は保証されているし、殺されることはまず、ない。
であれば、そうではない身の危険にハラハラさせたりしなければならないのに、最後の最後でヘビの恐怖を見せてどうする。
それは、キャンプ中にやらなければならないだろう?
全てが終わってからヘビが出てきても、絶対助かると見てる人間は思ってしまう。
自然の脅威、恐怖は中盤に描くべきだ。
ジョシュ・ブローリンが気の毒でならない。
ジョシュ・ブローリンのスクリーン上での説得力は確かで、保安官とレンジャーなんかより見てて楽しい。
そう、なんか「面白い」のだ。
でも、ストーリー的にはナンセンスで、少女と犯人が対峙するシーンは緊迫感がなければいけないのに、全く成立していない。
むしろ、少女が犯人を許してしまうんではないか、という画にさえ見えた。
ジョシュ・ブローリンがダメ男過ぎるし。
犯人が少女を襲う時にも、ヒロインの勇敢さは見ることができず、結局トゥルー・グリット(真の勇敢)は、この映画の中にどこにもなかった。
保安官とレンジャーが結託したとの描写があっても、それがセリフで語られるだけで、説得力に欠ける。
保安官の決闘シーンもびっくりするほど迫力がなく、最後に対決する相手は、「お前誰だよ?」みたいな奴。
倒した後のカタルシスは微塵もない。
だって、殺したい相手は別だもんな、と思ってしまう。
とにかく序盤から中盤にかけて出した伏線を回収するだけに終わり、レンジャーの銃も「それだけ?」みたいな活躍。
保安官の手綱を口にくわえての二丁拳銃も正直、不発。
ラストの流れも感動は一つもない。
最後の最後まで不発だらけで、エンドロールの最後に何かあるのかと期待したが、当然不発。
クライマックス辺りで不発弾のシークエンスがあるが、それこそ自分たちの映画を皮肉っているのかと思った。
それがトゥルー・グリット(真の勇気)だと言うのなら、なにも言うまい。

SUPER 8

★★☆☆☆2.5
一言で言うと、凄まじく勿体無い映画。
スターバックスでありとあらゆるトッピングを追加して、結果的に不味くなった、みたいな残念さ。
良いところはたくさんあるし、面白いかどうかで言えば面白い。
いや、面白いシーンもある、というところか。
つまり、面白いシーンが持続するのではなく、単発的に面白い、または面白くなりそうなシーンを詰めているだけの、まさにトッピング的なのだ。
スタンドバイミーを彷彿させる8ミリ映画製作シークエンスは、映画を作る人間じゃなくても楽しめるし、映画ってそんな感じで作るんだ、という雰囲気を伝えるのも十分だと思う。
監督のデブは良い仕事をしているし、主人公とヒロインの恋の行方もいい感じ。
なのに。
なぜ、彼らにもっと活躍させなかったか。 学校で怪物の秘密を見つけるシーンが完全に死んでいるし、8ミリ映画も活きていない。
8ミリ映画シークエンスで大事なのは、8ミリ映画が流行している時代である事の描写と、それを作る事の意味を伝えないと行けない。
少年たちは、8ミリ映画に熱中し、夢を抱いていたというのが無いと、8ミリ映画を撮る原動力が弱い。
親父に映画製作を止められても、尚続けようとするモチベーションがヒロインに向けての恋心だけでは、何とも。
次に、主人公の親父。
何かをしでかそうとしている雰囲気は漂っているのに、結果的に何もしていない。
必要だったか?というレベルの活躍と役割になってしまっている。
そして、エイリアン。
政府が何を企んでエイリアンを列車で運び、どこからどこへ向かっていたのか。
そして、もし目的の場所まで送られていたら、どんなことになったのか。
それがわからないと、身を挺して列車にぶつかった先生の意味が全くわからない。
しかも、あれだけの力を持っているなら、いくらでも逃げられてたであろうはずなのに、まんまと捕まったのもよくわからない。
何かを奪われていたのなら別だが、政府の目的が宇宙船なのか、エイリアンそのものなのかもわからない。
ここは絶対描くべき部分だし、それを明かさないと興味を持てない。
本当に何がしたいのかわからなくなる。

大きく分けて、少年の映画製作とエイリアンの二つの要素をこれでもかというトッピングで盛り付けたパフェのような映画だが、結果的に食傷どころか、二度と食べたいと思わないものに仕上がっている。
唯一、一口目は美味いからこそ残念、というのがせめてもの救いであり、こちらからの最大の譲歩だ。
エイリアンと対峙するシーンがあるが、あれは死ぬほどナンセンス。
少なくとも主人公はエイリアンとコミュニケーションする方法を知っておくべきだったし、それを学校で知るチャンスはあったはず。
エイリアンにだけわかる特定のサインをそこで知る、とか。
8ミリで見たヒントをそのクライマックスで披露しないと、せっかくのスーパー8が台無しだろう。
何のためのスーパー8なのか。
そして、最後のシーン。
手放すべきなのは、母親の形見のロケットではなく、列車が倒壊した現場で持ち去ったキューブだろう?
最後のピースが主人公から放たれ、エイリアンが帰って行く、という流れでないと。
何のために持ち帰ったのか。
お母さんとは何だったのか。
全てが破綻する。
それを直すだけでも随分様変わりすると思うが、それでもこの映画が歴史に残ることは難しいだろう。
ただでさえ、罪無き人を殺しまくったエイリアンにほとんど同情できない作りになっているから。
何しろ、最後の8ミリ映画もしっかりコケている。
美味い料理は、トッピングで決定するものではない。
塩と決めたら塩味で。
醤油と決めたら醤油味で。
スーパー8と決めたら、スーパー8で。

ソーシャル・ネットワーク

★★★☆☆3.0
凄まじい情報量。
2時間中、退屈する瞬間は無く、矢継ぎ早に早口な連中が台詞に次ぐ台詞を叩き込んでくる。
ショーン・パーカーが早口の代名詞かのように語られるが、とんでもない。
マーク・ザッカーバーグにしろ、その友達にしろ、ライバルにしろ、作中の中心人物は全員鬼のような
スピードで話す。
おかげで、内容を理解するのに終始、どころかソーシャルネットワークについて明るくない人にとっては、拷問かもしれない。
特に、最初のフェイスマッシュを酔った勢いで組み上げるシークエンスは、用語をある程度知ってないと、一気に突き放される。
Apacheとか、普通の人は知らないから。
ソースといわれても、プログラムのプも知らない人は、その言葉自体にピンとも来ない。
リアルを踏襲するがあまり、意外と敷居が高い作品になっているかもしれない。
逆に、用語やソーシャルネットワークに明るい人は、普通に楽しめるだろうし、物足りなさを感じるかもしれない。
かく言う私もそのサイドで、もっとFacebookの中身を覗き見たかった。
もちろん、企業秘密だろうし、肝心のマーク・ザッカーバーグが協力してない背景もあり、それは難しかったのだろう。

後半は裁判シークエンスとFacebookの栄光への駆け上がりが交互に描かれ、Facebookは巨大なシンボル・概念に変わっていく。
Facebookが巨大になるまでが、この映画のすべてなのだが、残念なことに、ここが圧倒的に弱い。
マーク・ザッカーバーグが、ショーン・パーカーに陶酔してから、ショーン・パーカーの話に変わってしまう。
意図的としか考えられないぐらい、ショーン・パーカーの登場が増え、マーク・ザッカーバーグの口数が減る。
もちろん、Facebookを作ったマーク・ザッカーバーグは凄いのだが、ショーン・パーカー無しでは駆け上がれなかったのでは?という印象を受けてしまう。
それぐらい、この映画ではショーン・パーカーを魅力的に描いている。
他のキャラクターも弱い。
ボート部の兄弟は、マーク・ザッカーバーグを揺るがす事もなく、ただのモブとして役目を終えるし、親友の印象も薄い。
何より途中から、口数が減り、何を考えてるかわからないキャラクターに変化したマーク・ザッカーバーグ。
それについては構わないが、親友を裏切るシークエンスが何より弱い。
葛藤はあったのか。
最初から決めていたのか。
そこにショーン・パーカーの口添えはあったのか。
後半こそ、一番語るべき部分が多いのに急いてしまった印象だ。
別にどうでも良いシーンを凝って撮ったり、観客が見たいであろうニワトリのシーンが無かったり、割と凸凹な演出だったりする。
何より、マーク・ザッカーバーグを変な奴にしたいが為のシークエンスが結構下手。
冒頭の彼女との会話も全然面白くない。
そんな奴が天才的なソーシャルネットワークを構築できたとは思えないし、マーク・ザッカーバーグの言動は基本的に全然面白くない。
この映画に足りないものはいくつかあるが、一番足りないのはマーク・ザッカーバーグのユニークさだ。
こいつ、性格悪いけど、メチャクチャ面白いなーと思わせないと。
その点に関しても、ショーン・パーカーのその役目を奪われている。
それこそFacebookよろしく、マーク・ザッカーバーグの趣味やら好きなフットボールチームを語るべきだ。
それさえあれば、この映画はどう転んでもマーク・ザッカーバーグの、そしてFacebookの映画になったのに。

ソウルキッチン

★★★☆☆3.0
コメディとしての疾走感を損なわない為に、キャラクターの造形はかなり紋切り型ではある。
正直、キャラクターをゆっくり説明する時間がない。
それほどにこの映画は90分という時間の中にかなりの物量を詰め込んである。
停滞も栄光も挫折も復活も、全部あっという間。
中弛みさせる時間は微塵もない。
が故に、それぞれのシークエンスをゆっくりと噛みしめる時間もない。
まさにジェットコースター。
ついさっき怖い思いをしたカーブのことなど、すぐ忘れる。
さらに、干渉後の余韻もそれに近い。
短時間にオシャレなものを矢継ぎ早に見せられたらという感覚。
事実、出てくる料理の見せ方はカッコいい。
音楽に乗せて調理するシーンは、自分好みでもあるが、それ以上ないというほどの演出だ。
汚い食堂にフレンチっぽい盛り付けの皿は明らかにギャップ狙いだし、だからこそ若者たちに流行ったと十分わかる。
貸切パーティーのシーンは、やりすぎ感もあるが、栄光の象徴としてはこれも十分。
盛りのついた若者が見たら、絶対行きたくなる。
つまり、この映画は男の子向けであり、17歳ぐらいが観ると、かなりの人間がハマると思う。
かなり割り切って作ってあるのは容易に見て取れる。
だからこそ、物語が巧妙っぽく作られている為に、それがあざとく見えてもいる。
一つ一つ伏線を回収してはいくのだが、あざとい。
おそらく、それがすべてセリフで行われているからだと思われる。
よって、「言わせてしまう」陳腐さが臭ってくる。
しかも、コメディにありがちな「それをするだけのためのキャラクター」が多数登場し、陳腐さに拍車を掛ける。
しかし、楽しい!と思わせる演出は流石の一言で、なんか楽しい!踊れるもんなら踊りたい!あの食堂に行きたい!と思わせた時点で、この映画は圧勝である。そして、サントラまで欲しいと思った私はまんまとあの食堂の一員となるだろう。
メニューが全部同じ味だとしても。
